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「色即是空と五本能人生論」2.



色とは人間の肉体のこと、空とは人間の心のこと、と解釈いたしました(p204)


直江氏はなぜこのような結論に至ったのでしょうか。もう少し般若心経とともに読み解いて参ります。




照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)

観自在菩薩は深い修行の中で、私とは何か、自分を自分たらしめている根拠は五蘊であるという結論に至ります。

五蘊とは五つの要素、「色」「受」「想」「行」「識」五種類をさしており、その和合をもって私たち人間ができている、もしくは、このような存在を認識できるという思想です。「色」とは目に見える物質全般を指していますが、人間に置き換えると外側の目に見える要素、つまり、肉体を指します。残りの4つは内面を指しており、「受」=喜怒哀楽のような感受する働き、「想」=想像(イメージ)する働き、「行」何かを行おうとする意思の働き、「識」=認識、判断する働きです。



受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶりにょぜ)

五蘊のうち「色」について述べたことは「受」「想」「行」「識」も同様である、と説明しています。「空」とは「無」ではありません。仏教における「空」とは「空性(空である性質)」を意味します。空性とは永久に固定されたモノ、変わらぬモノはないという意味です。この空性という思想が日本人である私たちにとって「空」(から)という漢字にひっぱられてしまうためか理解を難しくしているように思います。

「空」(くう)という概念は仏教における「因縁」という概念で説明することができます。
ひとつ例を出してみましょう。目の前にチューリップが咲いています。私が球根を土に植えました。たっぷりのお水をあげると芽を出し、茎は伸び、花を咲かせました。チューリップが咲いた要因を考えると、一つは球根があったからです(=因)。もう一つは、土があってたっぷりのお水とお日様のお蔭(=縁)で花を咲かせたということです。因と縁がそろってはじめて花が咲くという結果につながったと言えます。因と縁、いずれかが欠けると花は咲きません。この原理を仏教では因縁所生(いんねんしょじょう)と言います。そして、このチューリップも、チューリップという名前を誰かがつけて、その名前を私が知らなければ、チューリップと認識することはできません。これも因縁です。さらに、チューリップは永久に咲き続けません。いずれ、因縁によって枯れてしまいます。目に見える物質を見たその瞬間を切り取ると、あたかも永久にそこに存在し続けているかのように認識してしまいます。実際は因縁があって生まれ、時々刻々と変化していくため、不変のもの、そこにあり続けるものは一切ないということです。これを「空」(空性)と言います。

自分に置き換えてみましょう。因と縁がなければ私はこの世に生まれてきませんでした。ここに私という肉体があります。私という肉体は同じ場所にとどまっていません。私の欲望にしたがって行動します。欲望に従って、食物を口にし、睡眠をとります。肉体も内面も成長し、いずれ衰退します。また、私は一人で生きていくことはできません。誰かと助け合う心、思い合う心、愛し合う心があって自己の存在を認識できます。自分に与えられた役目に励むことや、人に尽くすことによってアイデンティティを感じることができます。目に見えない心や、心から発生する欲望が伴って初めて「私」という存在を確認することができます。

人間の場合、肉体だけでは物質的な「状態」です。しかし、そこに「心」が伴うとどうでしょう。「状態」から「私という存在」を認識できるようになります。さらに、心から発生する欲望は、私を時々刻々変化させます。さらに、欲望をどう充たすかによって私の人生は左右されていきます。欲望の充たし方によって、生物学的には同じヒトであったとしても誰一人同じ人生を歩むことはありません。このような点から、直江氏は人間の心に「空」(空性)を見出したのではないでしょうか。



シャーリーよ。人間の心と体は一心同体だったわい。
人間の肉体の中にこそ、真心という「仏」が住んでおられるのだから、人間は健康な肉体を保ってこそ、心も正しいことを考えられる。心を粗末にすることは肉体を粗末にする事であり、肉体を大切にしない事は、心を蔑ろにしている事である。(p210)


驚くことに、直江氏は、人間の真心とは仏であるという根本理念に辿り着いたのでした。





このコラムを書いた人:杉山英治
企業ブランディング戦略構築コンサルタント。薬師堂グループのCI構築に携わる過程で五本能人生論に出会い、「人間は何のために生きているのか?」という壮大なテーマの泥沼に陥る。株式会社デザイントランスメディア 代表取締役。



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